ナムログ

20代迷走モラトリアムブログ

モラトラーナムの自己紹介

なむって?

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なむ

1997年生まれの22歳。 生まれた日は秘密ですが、その朝には某総書記おめでとうとテレビで祝われるのが毎年恒例でした。

クラゲが有名な田舎町。

ものをつくるのがすき。 って思っていたけれど、そうでなくって、ものをつくるまでの想像をしているのが好きでした…(残念)

《ざっくり紹介》

  • 水泳、サッカー、ソフトボールなどをしてきたスポーツ少女
  • 1年と決めて保育士になる
  • その後飲食店で学びながら、調理、ホール、広告作成をした
  • 趣味で雑誌作りなどをする。

いろんなことをやっているのですが、基本的にはパッと思い浮かんだことをカタチにしたいと思うところまでが好きです。 つねになにかを作る妄想をしていたいんです。

特徴

  • 見た目としゃべり方はゆるいが、実際は鬼のよう

  • 急ぐのがきらい

  • 好奇心旺盛、多動

  • 口ぐせは「モン」

  • 基本ぼっーとしてたい

  • 何を決めるのにも、計算より直感

  • よく言えば自信家、悪くいえば傲慢

  • 人を元気にする

  • 人の可能性を広げられる

  • 話すと人に自信を持ってもらうことが出来る

生活はよくこれをしている

  • 読書

  • 文章を書く

  • 絵を描く

  • 思いつき

  • 宇宙や死生観を考える

  • 料理、菓子作り

  • ピアノ、ミュージカル音楽、落語を聞く

  • よいお店にいくこと

  • ワンピースを着る

  • 菅田将暉にそっくりな恋人がいてゾッコンすること

人生で大事にしていること

自分がどうなりたいかがいちばん大切なりたいと思ったらなれる。なりたいと願ったことはすべてなってるから。

分からなくなったら聞いてごらん「わたしは、どうしたいの?なにになりたいの?このまんまでいいの?どうしたらいい?」 って。

ブログを始めたきっかけ

はじめは副収入を得て料理しまくろうとか考えていました。 ですが、やりたいことっていますぐにでもできることを知って このブログの意味が分かりません。

なぜか、料金を支払って書いていますが、 これからは、「無駄じゃね」って思われても わたくしが有料でなにかしら書いていこうと思っています。 意味が分からないブログです。

経歴

幼少期 スピリチュアルは信じないけど、振り返るとスピリチュアルな子でした。←

わたくしは生まれた頃から他の子よりちょっと劣等感が強く、セロトニン不足な子どもでした。 中学生までは大人しく声も出さない子でした。

実は、0歳の時の記憶もあり、2歳の時には取り憑かれたのが原因で病気になり生死をさまよう。 3歳の時には、「人は死んだら、どこに行くんだろう」なんて考えて、怖くなりおばあちゃんにせなかをくっけていました。トドみたいなおばあちゃんのおなかは安心します、

同時期の 3歳でスイミングスクールに通い出す。 かなりの成績の持ち主でしたが、スイミング前のミッキーマウスのマーチの体操が気に入らなくて、小学2年生で辞めました。 (辞めてからも小学6年間1位でした。男子の県大会メンバーに混ざっていました)

また、お絵描きも好きで3歳頃から毎日書き続けました。

小学3年生では、サッカースポーツ少年団に入りました。 本当はミニバスケットボールに入るはずだったのに、お兄ちゃんとその友達の圧力で仕方なく入りました。

結果、地獄だった。(笑) 男子の中に女子が数人居たとはいえ内気な子が入ったのです。ひ弱な女子が!(笑) ボロボロでした。女の子達がやめていく中、なぜかイヤイヤ、続ける力はありました。(おいおい...)

そんな苦い小学校をあとにして、中学校に入ります。

私はある野望を抱きます

"ある分野でいちばんになりたい" "スポーツで、レギュラーになりたい" (サッカーは、男子ばかりだったから競争が難しかったけど、女子だけの世界なら楽勝という根拠のない自信があった)

「勉強は、いちばんになりづらいなぁ」と なんにもいいところがない自分。 なにか、自信を持ちたい! 「そうだ、部活だ!そこでレギュラーになるぞ!活躍するぞ!

これが、私にとっての事件へのはじまりでした。

ソフトボールに出会う~ 体験入部が楽しくて入部したソフトボール部。 じつはそこは、毎年圧勝で県大会を優勝する全国経験もあるチームでした。

ここで、私は先輩に監督にしごかれました。

といっても、2年生になるまではあんなに楽勝だと思っていたのに、チームで下から3番目くらいの使えないヤツでした。

しかし、ひとつだけ武器があったのです。それは、足が速いこと! いや、詳しく言うと足が速そうに見えた!ことでした。細身のみためと走っている姿が、実際のタイムよりも速く見えたそうです。それでみんなは私のことを速いと言ってくれました。

そこで、ピンチランナーとして学年では2人しか出られない試合に出たり、 バントを極めて、バントすれば、全てセーフな使えるヤツに成長しました。

そんな私はソフトボールにかけていました。 そう全国に行くと。 だから、オープンキャンパスもなにもかも予定は全部いれませんでした。

しかし、敗れたのです。しかも県大会で。

そこから、引退し、学校に行く意味が分からなくなりました。それまでは毎日、ソフトボールするために通っていたのです。なのに、なくなったとなり、私は燃え尽き症候群自律神経失調症(鬱病)になりました。学校にも行けず、リストカットをしたり道路のど真ん中に出たり、わけもなく涙を流し、ハンバーグを食べても味がしない。そんな無気力な毎日と死にたい消えたいという願いとうまくいかない生き地獄のような毎日を過しました。

お母さんとお父さん、お兄ちゃん、おばあちゃんにはとっても迷惑をかけました。

学校に行かず、 鬱病ニート生活を送っていくなか、薬を飲みつつ少しずつ良くなってきた頃です。進路の話が来ました。その時はもう判断することなんてできません。

モテなかったのを言い訳に女子の中で生き、セーラー服を着たいと思い、女子高に行こうとしたのですが、オープンキャンパスに行かなかったゆえ断念。

そのタイミングで元プロソフトボーラーの先生から全国へ行かないかとスカウトを受けます。

迷ったが、全国へ行く話はアツかった。 周囲のいいんじゃない?そこへいけ!の声でレッツラゴーしてしまいました。

そこでも、人生最大の地獄を味わう(ペロリ)

私は、またソフトボールにとりつかれちゃいます。といっても 正常な範囲内でです。 中学の頃は、ソフトボールが全てで感情も友達もすべてを失ってもいいと本気で思っていました。そして、感情が邪魔くさかったから、自分の感情を捨てるようにしました。感情や心の声に触れない、自分の頭で会話をしないようにするなどして。どっちの足から踏み出すかとか生活の全ての小さな決断も、ソフトボールにかけていたのですね~。

しかし、高校から、ちょっと友達を失ったり、自律神経失調症になったから、バランスもとっていこうと考えるわたし。

友達に関しては優しくしていればいいと思っていました。けれど、テンプレートをくっつけたような作った笑顔と優しさだったのかもしれません。心の中では友達はやはりどうでもよかったんだと思います。

わたしは、やはり全国に行きたくて負けず嫌いを発揮したり、真面目すぎたのでしょう。

かなりいじめられましたね。しかし、どうでもよかった。やはり、目的は全国へ行くことだったからです。

当時は周りのやる気のなさとレベルの低さには呆れていたのですが、いまになってみると、その時の自分の人間味のなさなどが痛いほど身に染みます。

そんなこんなを経て、私は地元を出ていくことしたのです。そして、これだけ若いうちに死ぬ思いをしたからもういいことしか起こらないと思うことにしました。

なぜか、昔から仙台へ行くと決めていたので、仙台で短大を探しました。

学校で辛い思いをしたので、2年でいいと思い短大か専門を探しました。 昔からお菓子作りと料理することが大好きだったのと、忙しない毎日を送り続けた結果ぼっーとしたり、落ち着きたいと思うようになり、カフェ専門に行き、落ち着いた喫茶店員になるか、それとも好きなお菓子を作るため製菓学校へいきパティシエになるか、はたまた調理学校へ行くか、または栄養士にもなろうかと考えていました。 そのことを親に伝えると、一括!「そんなんで、食っていがいね!ちゃんと考えれっちゃぁあ!」と..... 奨学金は自分で借りるからと説得したものの、却下されてしまい、親の言うことに負けてしまいました。

そこで、まあ嫌いでも好きでもないけど、好かれるからというのと周囲に向いているんじゃない?と言われることが多かった保育士&幼稚園教諭の短大へ行くことにしました。

そのときは、深く考えず、お料理だったら太るし、とりあえず仙台行ってモテまくろうとしか考えていませんでした。

そして、仙台の地へ舞い降りました。

仙台では保育なんて興味ありませんから、適当に寝て聞き流して、栄養士の先生のところへ通ったり、気になった外部講師の話を聞きに行ったりして過ごしていました。

ちょうど、取り戻したかのように青春の日々を過ごしていた頃です。私は、私の運命を変える人に出会ったのです。イマドキの言葉でいうとメンターと言いますか。

この話はまたおいおいするとして....

その人に出会ったおかげで、本を読むようになったり、自分を磨いていくようになりました。

私は、当時絶対に老けたくない!と思っていました。 そこで、老けない食事を調べだしたり、本を漁って読み出したりしました。

調べれば調べるほど面白い!

そして、その頃また自分のなかで料理もおもしろいのかな?という思いが湧いてきました。

そんなこんなしていると、もう短大も卒業する頃になります。

私は進路を真剣に悩み、決断しました。

「私の勘は、1年は保育士しろと言っているので、1年やったらやめて思う存分好きなことをしよう」

と。

そこで、保育士をきっちり1年勤めあげました。 その後、飲食店で働きましたよ。

しかし、無残にもさまざまなことが相まって辞めて 「ヨーロッパ無計画旅」に菅田将暉といくことになりました。

旅で訪れたのは、「トルコ」「フランス」「イギリス」そしてなぜか中国の「厦門(アモイ)」です。

まあ、そのあともいろんなことが起こります。

終わります。(無責任な完結)